| :58 去る、2月28日 水俣病語り部の杉本栄子さんがご逝去されました。 今を遡る事8年前。 高校生だった私と杉本さんの出会いがありました。 放送部でテレビドキュメントを制作しようと取り組み始めたのは、 桜も散った4月半ばだったかと思います。 きっかけは後輩のお父さんが水俣に通ってお勤めだったこと。 高校から水俣までは片道約2時間強。 取材するにはあまりにも離れすぎていましたが、 水俣病患者の中心である杉本さんを取材させていただけるとなって、 こんな機会を逃すことはできない。と心を決めました。 杉本さんと初めてお会いした時、とても大きな瞳と チャーミングな笑顔が印象的でした。 それまでも、 大きなテレビ局から何度も取材を受けていることを聞いて、 恐縮する私達にとても真摯にやさしく接して下さいました。 一緒に海岸に海草を取りに出かけて、 海草の種類を説明しながらおいしい食べ方を伝授して下さったり、 (もちろん持ち帰っておいしく頂きました) 茹でたてのシラスを海の塩味だけでごちそうしていただいたり、 お家に伺うといつも気持ちよく迎えて下さる杉本さんに水俣病の影は なかなか見えなかったように思います。 でも、時折どうしても体調がすぐれないと連絡をいだだき予定していた取材日を変更したこともありました。 また、昨日まで起きあがれなかったとふとこぼされたことも。 薬を服用される姿もみました。 確実にそこに水俣病がありました。 取材する中で、杉本さんの語る言葉は重く、 私は、自分の無知を何度も恥ずかしくなったことを思い出します。 中でも、強く心に残っているのは、 「水俣以外の人たちに、 軽蔑されたり差別を受けたりする事はもちろん辛かったけれど、 もっと辛く悲しかったのは、水俣で築き上げてきた "もやい"(地域の絆)が無くなってしまったこと。」 の一言でした。 水俣病の原因を作り出したチッソという会社は、 水俣に深く根付いた企業です。 つまりご近所はもちろん親族・家族の中に、加害者と被害者がいる。 そんな想像するだけでも胸が苦しくなる状態が、 今もどこかで続いている。 杉本さんはほとんどその悲しみを表情に出される事は無く、 むしろ私達に力強く語ってくれました。 『もやい直し』への取り組み、そして『水俣の海の再生』。 漁師の網元でもいらっしゃった杉本さんが海を語る時、 その瞳はとても輝いていました。 「山は父であり、海は母である。」 「海も山も"のさり"(授かりもの)なのよ。」 人の手で汚してしまったのだから、人の手で元に戻す努力をしなければならない。 そして、それは確実に身を結び、水俣の海は再生しつつある。 "のさり"の言葉は深く私達の心に残り、 完成したドキュメントの題名は[のさりの海]となりました。 朝早く漁に出られる杉本さんの姿を撮影するため、 水俣の埋め立て地にある公園で車中泊をしたことがあります。 目の前は海。私は眠る前にそこを一人で散歩してみました。 鎮魂の祈りを込めて造られたの石像の見つめる水俣の海はとても穏やかでした。 不思議な事に、この水俣取材のことを後輩と話すときそこには笑顔があります。 それは、きっと杉本さんが多くの笑顔と強く生きる姿勢を 見せてくれたからだと思うのです。 取材後、杉本さんと連絡をとることはありませんでしたが、 テレビでお姿を拝見するたびに、 まだまだ頑張っていらっしゃるのだと心強く思っていました。 心からご冥福をお祈りします。 出会いがあって別れがある。 きっと、今日は多くの別れがあったのではないかと思います。 私も、今日お別れをしてきました。 でも、笑顔で見送ることができました。 別れの後に、また新しい出会いがある。 これはきっと、確かなことだと思うのです。 |